人気ブログランキング |
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

<   2010年 03月 ( 4 )   > この月の画像一覧

d0087054_126894.jpg

 毎朝みかんを横半分に切って、裏庭の楓の枝に突き刺す。すぐにつがいのめじろが来て、そのみかんをつつき出す。コーヒーをいれて新聞を流し読みする。ガラス戸ごしにめじろたちの可憐な動きが見える。山吹がちらほら、山桜桃が花盛り、フリージアがカラスノエンドウにまとわりつかれながら黄色い花を咲かせている。山椒が芽吹き、アスパラガスが土を持ち上げ、小手毬、モッコウバラが蕾をふくらませて出番を待ちあぐねている。いまだに肌寒い風が吹いてはいても、外はまちがいなく春である。若いころにはわけもなく浮き足立つようなこの季節を、はたしてあと何回見れるのだろうと、ふと思う。
by mizzo301 | 2010-03-29 12:06 | エッセイ | Comments(0)
d0087054_23325391.jpg

 風呂でうつらうつらとラジオを聴いていて、驚いて目がさめた。舌ガンを克服した86歳のソプラノ歌手が、コンサートで歌ったというのである。風呂を飛び出してインターネットをたぐってみた。毎日jpの記事がある。三重県伊賀の前川さん86歳、昨年1月に手術で舌の四分の三を切除、腹部の筋肉を移植する大手術をうける。声を出すことか食べることのどちらかをあきらめないといけないといわれ、泣いたという。ところが術後二週間で声を出せるようになり、流動食もとれるようになって、この歳での快復力は病院はじまって以来と医師も驚いたそうである。それにしても、およそ一年で歌えるようになるまでには、並大抵のことではなかっただろう。人並み以上の優れた精神力をお持ちとしか考えられない。不肖Opaならここでやけ酒におぼれ、回復もまたずにあの世行きまちがいなしである。だがこのニュースに、Opaのなまくら根性は風呂でゆさぶられた。人生の先輩に対しての尊崇の念を禁じ得ない。コンサートを早く知っていれば、泉州から伊賀までは遠いけれど、車を走らせたかもしれない。記事では、ボランティア活動など抱負を語っておられる。お元気で歌い続けられることを願ってやみません。
by mizzo301 | 2010-03-17 14:20 | エッセイ | Comments(2)

ヨロガワノミル・・

d0087054_17444782.jpg

 あるラジオのパーソナリティ氏が、消えゆく関西弁をしきりに惜しんでいた。たしかに七輪をカンテキ、おでんをカントダキ(関東煮)、美味しくないをもみない、よろしく頼むをアンジョウ頼むなどという人は今ではほとんどいなくなった。関西弁といっても広範囲にわたるから、地方で単語、いいまわし、語尾などにかなりのちがいがあるのだが、そのイントネーションは見事に同じである。日本語という日本人共通の歌を、関西人だけが他所とはちがう旋律で歌っていることになる。関西なまりである。これはそう簡単にはなくなりそうにないから、関西弁消滅というパーソナリティ氏の心配は杞憂である。関西人の耳には日本語は、関西なまりとその他なまりの二種類しかない。関東、東北、北海道も、中国、九州、沖縄もことばの旋律はほぼ同じに聞こえる。ただ、四国はほとんどの地で関西弁のイントネーションが聞こえるのはなんでやねん。多様な関西弁であるが、その変音がおもしろい。子供のころ、タ行がサ行に、マ行がバ行に変音して、お年寄りがパンツのひもをパンスのヒボというのを聞いたことがある。今でもダジズデドがラリルレロに変わって、雑巾をドーキンといい、絶対安全をデッタイアンデンと和歌山人はいう。関西人同士は互いのことばのちがいをよくからかって笑いあう、ほんまやなあいうて・・。大阪でも「ヨロガワノミルノンレハラララクラリ」なんちゅうて河内弁をおちょくったもんや。これは「淀川の水飲んで腹だだくだり」や、わかりましたか。これを美人がいうたらどやろ、しょうもないこというてわてあほや。
by mizzo301 | 2010-03-16 12:44 | エッセイ | Comments(0)

ごはんの花咲く季節に

d0087054_15351589.jpg

 Opaの一家は母のお産と疎開を兼ねて、戦争の末期の一時期、T市の母の実家に身を寄せていた。4,5歳のころである。十歳上のすでに女学生だった叔母がいて、庭にしいたござの上でよくままごと遊びをしてくれた。さあごはんですよといいながら、かたわらに咲きこぼれるユキヤナギの花を小さな器に盛ってくれる。叔母は自分の器にも花を盛って、ごはんを食べる仕草をして見せた。米だけのごはんなど夢のような食糧難の時代である。盛られた白い小さなその花は、白米のごはんそのままに思えた。現実の食事は、飯の炊きあがりを増やすために、大量の麦はもちろん、刻んだ芋づるやさいの目の大根などが一緒に炊かれた。なかでも大根飯が一番いやだったけれど、食べなければ他には何もなかった。うそでも白米のごはんを食べることができたのは、空襲の合間に行われたござの上のままごとだけであった。思えば叔母も食べ盛りの年頃である。子供にかこつけたままごとで、自分も空想世界の白いごはんをお腹いぱい食べていたのかもしれない。Opaの庭に木瓜やユキヤナギが咲き始めると、決まって思い出す幼い日の光景を、八十歳をこえた叔母もおぼえているのだろうか、会ってたずねてみたい。
by mizzo301 | 2010-03-04 15:37 | エッセイ | Comments(1)