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Opaの日々雑感


by mizzo301
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消えゆく航路

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  瀬戸内で宇野と高松をむすぶ宇高連絡船の撤退を朝刊が伝えている。瀬戸大橋の開通や高速道路料金の割引など、国策にほんろうされながらの一世紀にわたる歴史をついに閉じるとある。かつて何度か利用したこの航路には、それにまつわる濃い記憶が二つある。戦後すぐのころ、小学校に入ったばかりのOpaは、松山にいた伯母の婚礼に父と叔父に連れられて行った。大阪天保山から乗った瀬戸内航路の船は貨客船で、三等船室と貨物室はよごれたシートで仕切られているだけである。停泊した途中の港ではガラガラとクレーンの音がして、荷役の男たちの作業がこちらからのぞき見えた。松山に何泊か逗留の後、帰路予定の船が突然無くなった。その船は阪神から松山に向かう途中、米軍の残留機雷に触れて沈没したという。それを聞いた子供Opaは恐怖で縮みあがってしまった。戦後何年かはそんなことが時々あったらしい。父たちは仕方なく、鉄道と宇高連絡船で帰ることにしたようだ。超満員の身動きのとれない暗い車内でうんちに行きたくなったOpaに、父と叔父が大いに手こずっていたのをおぼえている。思えば国鉄予讃線である。高松から連絡船に乗り、宇野から鉄道で大阪に帰ったにちがいないのだが船の記憶はない。忘れられないのは紫雲丸事故である。1955年五月というからすでに中学生のOpaは、ある日の朝刊に目を見張った。濃霧の瀬戸内海で二艘の宇高連絡船が衝突、百数十人の犠牲者が出たという。修学旅行の中学生たちが大勢海に投げ出され、海中でもがきあえぐ生々しい写真はショックであった。我が子と同年代の子供たちの悲劇は父にもよほどこたえたらしく、その新聞を丁寧にたたんで仏壇の引き出しに永く納めていた。
by mizzo301 | 2010-02-13 18:45 | エッセイ | Comments(0)