あじさい
2017年 06月 19日
梅雨入りと聞いて十日あまり、さわやかな好天が続く。ドンの散歩にはありがたいが、庭のあじさいには水が足りない。梅雨にしとど濡れそぼり、顔を寄せあうように咲くあじさいの風情を今年は一度も見ていない。それどころか、その根株にホースでたっぷりと水をやるのが、Opa朝一番の仕事になっている。水が足りないと、あじさいはすぐにうなだれる。娘たちが小学生のころ、母親が切り花にして学校へもたせてやっていた。以来40年以上も毎年同じ場所に咲く老あじさいである。我が家は老人と老犬が暮らし、庭の花にまで老のつく老朽住居である。十年あまり前、鉢植えでさまざまなあじさいを咲かせるお宅が近所にあった。Opaよりは若いかとお見受けするご夫婦が、二十以上はありそうな鉢の手入れにいそしむ姿を、ドンの散歩の折にいつもお見かけした。この季節、その庭は色とりどりのあじさいでほんとうにきれいであった。ある朝、見事ですねと、思わず声をかけた。するとご主人が、親しい間柄でもないOpaに、どれかひとつお持ちなさいと紫の一鉢をくださった。それからしばらくして、ご夫人が急逝された。ご主人の失意は察するにあまりある。もはや庭のあじさいたちに水をくれる人はいなくなり、ついに枯れはてたらしい。いまも毎朝通りかかるその庭は、花の鉢はすっかり片付けられて昔日の面影はない。当時いただいた一鉢がOpaの庭で毎年ひとり花開くのをみるたびに、かつてのあじさいの庭を思い出す。
仲間と咲きあったありし日を偲んでいるようにみえる。
by mizzo301
| 2017-06-19 15:16
| エッセイ
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